ルサンチマンについて

僕自身はニーチェイストかどうかよくわからない。ろくに書かれた本を読んだわけでもないし。でもルサンチマンのことはよく考える。今だれだれのこういう言動や、だれだれの生き様に対して僕のこころはこういう反応を示したけど、そこにルサンチマンはなかったか、みたいにしてよく反省する。で、萬さんの意見ではニーチェはそういう使い方しかできないと。
ルサンチマンをセンサーし続ける作業ってのは、gettig out of boxの話とかいわゆる自己啓発のたぐいではわりと見かける手法なのではなかろうか。河合隼男先生の(ユングの)コンプレックスの概念というのは、ルサンチマンが発動するシステム全部をひとつの人格としてとらえたものにほかならないと思うし、上座部仏教で使われるサティという手法はルサンチマン以外のすべての自分の感覚までセンサーするものだと思うので、これが最強なのかもしれない。
まあ、僕の周りにいる多くのフツーのひとたちはこんなしちめんどくさいことしないで生きていると思うんだけど、ルサンチマンを原動力として周りに当たり散らす人っているよね。ま、でもそうやって、ルサンチマンへの気づきを他人に要求しだしたとたんに非常に醜悪になるというのが、萬さんの結論でもあったよね?